雑感:アニメーションの情報量に関する幾つかの戯言
アニメーションの情報量について、考えたことをメモ書き程度に(2017年1月5日に書き留めた)。
・これは未来予測ではない。それどころか、現状の分析ですらない。事実の断片をいくつか混ぜ込んだ、ある好事家の空想である。
・昨今情報量の少ない画作りが求められているように思う。これはたんに直感を頼りに思うばかりでなく、実際に制作の現場から要求されていることでもある(例:柳沼和良・吉成鋼ほか、幾人かのアニメーターによってめばちちゃんがほめられるなど。もっとも、上に挙げた二人は性癖が性癖なので、デザイン上の都合からめばちちゃんを褒めているわけではないのかもしれないけれども)。
・また、某所でかつて指摘されていたように、リアルを志向する画作りは行きつくところまで行きついた感がある(作画・撮影処理など)。
・御周知の通り、アニメーションにおける情報量は、年代によって波がある。OVAの登場に伴って、高密度な画面が要求されるようになり、80年代に一度ピークが来る。90年代に演出の時代、そして00年代初頭には人狼系リアル(と、ぼくは呼んでいるのだけど、この呼称で分かっていただけるだろうか)と、情報量は下降線を辿る。そして現在、情報量は再びピークに達しつつあるように思われる。
・供給される量と質に、現場が悲鳴を上げている。
・したがって今後本数は減少せざるを得ないだろう。
・また、画作りに対するパラダイムシフトが起る可能性もある。すなわち、リアル(≒情報量/線の多い)至上主義からの転換である。
・情報量の変化は作画スタイルの変化を促す可能性もある。例えば80年代に情報量の増大に伴って、幾人かのパイオニアたちの革新的な仕事を発端として(磯ショック・うつのみやショック)、リアル系作画の流れが生れたように、情報量の変化が新たな作画手法を誕生させる一因となることは十分に考えられる。