意味をなさないシーニュの群れ

チンパンジーのタイプしたでたらめな文字列が、シェイクスピアの著作の体をなすまで見守るブログ

Fate/apocrypha22話から考える作画的知識の啓蒙について

 目次

 

 

※ひとまず勢いで書ききってしまおうと、諸々の資料を参照せずに書いている。そのため、一連の記述には不確実な部分もあることをここに断っておきたい。この断り書きは、記述の根拠が補完され次第削除する予定である。

 

 

i.  はじめに

 いわゆる作画オタク(以下、作オタ)と、そうでないオタク(以下、非作オタ)*1との間には、大きなギャップが存在している。そしてそのギャップは、時に表面化し、大きな問題*2を生じている。

 そしていま、Fate/apocrypha22話をめぐって、そうした対立はふたたび表面化しているようである。そのあらましは、作スレ巡回委員長の以下のツイートによって総括されうるだろう。

 

 

 

 本稿では、この対立を詳しく記述するつもりはない。そんなものはTwitterの検索バーに「Apocrypha 22話 作画」とでも打ち込んで、出てきたTLを片っ端から読んでいけば把握できる話であり、現状追認以上の何物でもないからだ。

 では、おれは本稿で何をするか。それは、こうした対立が生じたとき、必ずといっていいほど話題になる、「作画的啓蒙」について書くのである。

 

 と、書いているうちにいくぶんか内容が錯綜してきたため、読み方を提示しておきたい。たんに、おれの定める作画的啓蒙の定義と応用について知りたいのであれば、ii節とiv節だけを読んでいただければよい。他の箇所はおれとしては多少の愛着こそあるが、多分にロマンチシズムの絡みつく、蛇足といって差し支えない。読み飛ばして頂いて結構である。

 

 

 

ii. 作画的啓蒙とは?

 はじめに、「作画的啓蒙」とはなにかを明らかにしたい。「作画的啓蒙」について語る以上、「作画的啓蒙」という語の定義を明らかにしなくては始まらないだろう。いささかまどろっこしいように思う諸賢もいるかもしれないが、地に足の着いた議論をするには、用語の定義が不可欠である。そのあたりをないがしろにすると、認識の共有ができず、議論はけっきょく宙に浮いてしまう。

 

 こうしたとき、第一には辞書的定義に頼るのがよいだろう。日本国語大辞典を引くと、 啓蒙とは次のような意味とある。

 

〔名〕

(蒙は道理をよく知らない意)

一般の人々の無知をきりひらき、正しい知識を与えること。

 

  辞書的定義を踏まえると、「作画的啓蒙」とは、「作画に関連する事柄について、それについてあまり知識のない人々に対して教え広める」といった意味であると考えられる。

 また他方で、現実の文脈に置かれている「作画的啓蒙」にも目を向ける必要があるだろう。辞書とはその性格から語の正統な(=広くあまねく合意を得た)意味を知ることには向いているが、俗流には弱い。日常言語学*3それゆえ、Twitter上から、「作画 啓蒙」と検索した場合の、個々人の用法を参照しよう。

 

 

 

 サンプリング数としてはいささかすくないやもしれないが、このふたつの見解を見るかぎり、啓蒙は価値観と結び付けて発言されている。すなわち、作オタと非作オタの間には価値観の相違があり、啓蒙とは、そうした価値観を片方の側から片方の側へと押し付ける行いを指しているといえよう。

 

iii.  作画的啓蒙の是非

 あまり分かりやすく定義づけることはできなかったかもしれないが、ひとまず用語の定義はこのくらいにしておいて、本題へと移りたい。以上で定義付けた内容からすると、「作画的啓蒙」は、アニメーションにまつわる基礎知識に乏しい人びとにあらたな知見を与えるというメリットを持つ反面、やりようによっては価値観の押しつけや、作オタ-非オタ間にさらなる対立を生むなどのデメリットが存在している。それゆえ、「作画的啓蒙」の是非を巡っては、作オタの間でも大きく意見が分かれている。

 

 たとえば、ii節で取り上げたふたつのツイートは、啓蒙をよしとしない人びとのツイートといえよう。他方で、冒頭に挙げた作スレ巡回委員長のツイートなどは、啓蒙をよしとする旨のツイートといえるだろう。Twitter上で「作画 啓蒙」と検索して出てきたツイートを見るかぎりでは、どちらかというと啓蒙に否定的な人びとの数の方が多いように感じる。

 

 おれの立場はというと、「作画的啓蒙」には条件付きで賛成である。価値観が違うのだから、作画に興味がない人間は放っておけばよいという反対派の意見もわからないではない。しかし、そうした態度の行き着く先には、無限の後退戦だけが待っているように思うのだ。だからこそおれは、仮に作オタ-非作オタ間の対立を深める結果となったとしても、「作画的啓蒙」をしてゆくべきだと考える。

 

iv. 無限の後退戦

 前節でおれは、「作画的啓蒙」を行わず、内輪のみで消費していこうとすれば、行き着く先には「無限の後退戦」しかないと言った。これについて補足していきたい。第一に、作画に対する知見の広がりについてである。社会物理学*4

 

 

v. 知識の教授か? 価値観の押しつけか?

 ⅲ節においておれは、作画的啓蒙の是非について、条件付きで賛成といった。v節ではそのことについて、もうすこし詳しく述べたい。

 

 これまでの議論を踏まえると、作画的啓蒙のあり方には二種類がありえるように思う。すなわち、

①事実に基づいた啓蒙

②価値判断を伴う啓蒙

の二種である。ii節で挙げた辞書的な定義は①のあり方であり、Twitterから拾ってきた定義のほうは②のあり方である。以下ではこのふたつのありようを詳しく見ていきたい。

 

 ところで、知的能力にすぐれる読者諸賢にはいまさら説くことでもないが、事実に関する問題と価値判断に関する問題とは、分けて考えられるべきであろう。前期ウィトゲンシュタイン的に言ってみれば、私の論理空間のなかには、価値判断に関する命題は含まれていないのであり*5、価値判断は私の世界の向こう側にあるのである。したがって、事実問題と価値問題とはそれぞれ別個に検討されるべきだろう。

 

 事実的な問題はいずれにせよ、検証という名の審判者によって裁きを受ける。こうした種類の言明は真か偽かのいずれかでしかない。かたや価値判断は真偽とは関わりがない。また、価値判断は明確な形で決定されることは珍しく、さまざまな社会的要因によってばらつきがある。

 

vi. 未来のアニメートのために

 たとえば、Fate/apocrypha22話の一連のアニメートを作画崩壊と呼ぶような種類の人たちは、二重の意味で正される必要*6があるように感じる。

 ひとつには単純に、ナンセンスな言明を繰り返しているという意味においてである。たとえば以下のツイートを見ていただきたい。

 

 

 影なし作画とは、言わずもがなアニメートのための技術のひとつである。情報量を減らすことにより仮現運動を行う動体のフォルムを先鋭化し、観客の注意を動きに集中させることができる。おれは関係者ではないから、そして、アニメーションというものを詳しく知っているわけでもないから、本当のところはわからないのだけれども、しかし、あれだけのスタッフ*7が集まっていながら*8、クオリティを落とす目的で影を抜くことなどありえようか。いいや、ありえないだろう。

 いや、よしんばクオリティ維持の観点から影を抜いたのだとしても、それは意図あっての影抜きである。それは能動的な判断であり、よりよい作品づくりを標榜するのであれば、なされるべき判断だ。そうした判断のもとに出来上がった映像を、作画崩壊と呼ぶことはできようか。いいや、できないだろう。

 それはなぜか。崩壊とは、受動的に起きてしまったことに対して使う言葉だからだ*9。能動的結果として生じたのであれば、それは崩壊ではない。従って、作画崩壊と呼ばれる所以はないはずである*10

 注にも書いたように、以上は詭弁である。しかし他方で、影抜き作画が手抜きと判じられる理由もまた、根拠に乏しいと言わざるを得ないだろう*11実証主義に基づけば、件の影抜き作画が、いかにして成立したか、その事情が明らかにならない限りにおいて、影抜き作画が手抜きと判じられることはない。したがって、件のツイートはいまだ検証のなされていない種類の言明であって、論理に対する誠実さに欠く言明であることは明らかである。そうして、論理によりかかって生きている我々人類は、この種の言明を積極的に排斥してゆかねばならんのである*12。我々は、論理の婢とならねばならぬ。

 さて、いささか話が反れてしまった。このあたりで話を本筋に戻すとしよう。ここで告白するが、先にナンセンスな言明の事例として出したツイートは、本来別のツイートがその場を占めるはずだったのである。しかし、見かけたはずだったツイートは姿を消してしまった。だからこんな回り道を要求されてしまったのである。

 ああ、そうだ。もう端的に述べよう。多くの人びと*13が作画に関して使うことばは、そのじつなんら無意味なことばなのである。それはなぜか。彼らのあやつる用語は、ほんらいのことばのふるさとから離れて、彼ら独自の使い方をしているからである。こうした言葉遣いは、いわば私的な用法であって、全く排斥されるべき種類のものである*14

 つまりはこれが第一の罪だ。彼らの言明は、往々にしてナンセンスなのである。専門的な言い方をすれば、命題の指示対象が存在しないのだ。シニフィエなきシニフィアンといってもよい。ことばの定義があやふやで、にもかかわらず彼らは堂々と吐き捨てるのだ。こうした無責任なふるまいが許されていいのだろうか。いや、万人が許したとしてもおれは許すことができない*15。彼らの無責任な言い分は、その作品に精魂を傾けたスタッフへの冒涜である。

 ふたつには現実に、彼らの言明が、ある種の社会的ナッジとして機能している意味においてである。ここ10年ほどで、作画監督に複数の人間が就くことは当たり前になったであろう。

 

 

補足. 更新履歴

 2017.12.12. 未完成のまま公開

 2017.12.13. ii節を大幅に改稿。そのほか加筆。未だ完成せず。

 2017.12.29. 全編に亘って手を加える。未だ完成せず。

*1:こういう区分をすると、いささか話が大きくなりすぎるかもしれない。また、作画オタクと呼ばれる人たちを明示的に示すことはできそうだが、その逆は難しそうである。

*2:大いに誇張を含む。作画的言説空間の周辺にいる人間にとって、アクエリオン19話のうつ事件やグレンラガン4話小林事件は大事件として記憶されていようが、それ以外の人びとは、おそらく認知すらしていないだろう。

*3:そちらの方面に明るい人には釈迦に説法であるだろうが、そうでない人びとのために補足をしておく。日常言語学派とは、いわゆる分析哲学の領野において、一時大きな影響力を持った一派である。その名の示すとおり彼らは、それまで主流であったフレーゲ-ラッセル的な理想言語を分析するのではなく、あくまで日常語を分析してゆこうとする。

*4:広くはコントに端を発する学問分野として知られているようだが、ここではA.ペントランドらによるビッグデータ解析に基づく

*5:倫理学講話」にあるように、相対的価値判断を事実的言明としてパラフレーズすることは可能である。しかしその場合においても、論理空間上に存在できるのはパラフレーズされたあとの言明のみであろう。

*6:「正される」必要があるというのは、すこし強すぎる表現かもしれない。なぜならば、かの人びとはある一側面においては、決して誤りを犯しているとはいえないからである。しかし、その無自覚な言動がある種の社会的ナッジとして機能し、その結果アニメーションの多様性が喪われる可能性がある以上、おれはかの人びとが「正され」ねばならないと、あえて言う必要があるように思う。

*7:かつてワンパンマンが「中堅実力派アニメーターによる加減を知った暴走」といった旨で総括されたように、Fate/apocryphaは、「若手実力派による加減を知らない暴走」とでも形容できようか。

*8:TVシリーズというのは得てして後の話に行くにつれ、スケジュール的には厳しくなる。従って、22話の場合にも、スケジュールの問題から影を抜いたという仮定を否定する材料を、おれは持っていない。

*9:コトバンク「崩壊」[https://kotobank.jp/word/%E5%B4%A9%E5%A3%8A-627170]を参照。辞書を引くのが面倒なので、ネット辞書に頼ってしまったことをここに告白する。

*10:この節を書くにあたって、おれはストロングゼロを呑んでいる。それゆえ筆が乗っているのではあるが、その反面で論理的思考を損じているきらいがある。この言い分も詭弁がすぎるように思うが、屁理屈も理屈ということばもあるように、詭弁もある種の論理を彫琢しているのだと思って読んでいただければ倖いである。

*11:前注でも述べたが、おれはいま酔っている。したがって、素面のおれが読み返したら、このあたりの段落はおそらく書き直すだろうと思う。

*12:三度目になるが、おれは酔っている。したがって、素面では吐かんような大言壮語を吐いてしまっている。

*13:ここでは非作オタを指す。非作オタとは、作画に関連する用語に習熟していない人間を指す。

*14:私的言語については、ウィトゲンシュタインなどを参照頂きたい。

*15:重ねていうが、大言壮語が過ぎると思う