意味をなさないシーニュの群れ

チンパンジーのタイプしたでたらめな文字列が、シェイクスピアの著作の体をなすまで見守るブログ

雑言:記法の統一

 過去に書き散らしたものを読み返すと、いまだ大した分量にもなっていないのに、文体・記法がばらばらで、乱雑に感じる。由々しき事態だ。

 むろん各記事の文体・記法はそのときどきの内容に応じて適切だと感じる方法で書いているのだが、全体を俯瞰してみるとどうにもよくない。

 今後多少時間を割いてでも、文体・記法の統一に努めたい。


追記:昨日上げた記事については、今週中の完成を目指す所存である。また、用語整理の一環で書き散らした◯◯系まとめ記事についても追って編集したい。

Fate/apocrypha22話から考える作画的知識の啓蒙について

 目次

 

 

※ひとまず勢いで書ききってしまおうと、諸々の資料を参照せずに書いている。そのため、一連の記述には不確実な部分もあることをここに断っておきたい。この断り書きは、記述の根拠が補完され次第削除する予定である。

 

 

i.  はじめに

 いわゆる作画オタク(以下、作オタ)と、そうでないオタク(以下、非作オタ)*1との間には、大きなギャップが存在している。そしてそのギャップは、時に表面化し、大きな問題*2を生じている。

 そしていま、Fate/apocrypha22話をめぐって、そうした対立はふたたび表面化しているようである。そのあらましは、作スレ巡回委員長の以下のツイートによって総括されうるだろう。

 

 

 

 本稿では、この対立を詳しく記述するつもりはない。そんなものはTwitterの検索バーに「Apocrypha 22話 作画」とでも打ち込んで、出てきたTLを片っ端から読んでいけば把握できる話であり、現状追認以上の何物でもないからだ。

 では、おれは本稿で何をするか。それは、こうした対立が生じたとき、必ずといっていいほど話題になる、「作画的啓蒙」について書くのである。

 

 と、書いているうちにいくぶんか内容が錯綜してきたため、読み方を提示しておきたい。たんに、おれの定める作画的啓蒙の定義と応用について知りたいのであれば、ii節とiv節だけを読んでいただければよい。他の箇所はおれとしては多少の愛着こそあるが、多分にロマンチシズムの絡みつく、蛇足といって差し支えない。読み飛ばして頂いて結構である。

 

 

 

ii. 作画的啓蒙とは?

 はじめに、「作画的啓蒙」とはなにかを明らかにしたい。「作画的啓蒙」について語る以上、「作画的啓蒙」という語の定義を明らかにしなくては始まらないだろう。いささかまどろっこしいように思う諸賢もいるかもしれないが、地に足の着いた議論をするには、用語の定義が不可欠である。そのあたりをないがしろにすると、認識の共有ができず、議論はけっきょく宙に浮いてしまう。

 

 こうしたとき、第一には辞書的定義に頼るのがよいだろう。日本国語大辞典を引くと、 啓蒙とは次のような意味とある。

 

〔名〕

(蒙は道理をよく知らない意)

一般の人々の無知をきりひらき、正しい知識を与えること。

 

  辞書的定義を踏まえると、「作画的啓蒙」とは、「作画に関連する事柄について、それについてあまり知識のない人々に対して教え広める」といった意味であると考えられる。

 また他方で、現実の文脈に置かれている「作画的啓蒙」にも目を向ける必要があるだろう。辞書とはその性格から語の正統な(=広くあまねく合意を得た)意味を知ることには向いているが、俗流には弱い。それゆえ、Twitter上から、「作画 啓蒙」と検索した場合の、個々人の用法を参照しよう。

 

 

 

 サンプリング数としてはいささかすくないやもしれないが、このふたつの見解を見るかぎり、啓蒙は価値観と結び付けられて発言されている。すなわち、作オタと非作オタの間には価値観の相違があり、啓蒙とは、そうした価値観を片方の側から片方の側へと押し付ける行いを指しているといえよう。

 

iii.  作画的啓蒙の是非

 あまり分かりやすく定義づけることはできなかったかもしれないが、ひとまず用語の定義はこのくらいにしておいて、本題へと移りたい。以上で定義付けた内容からすると、「作画的啓蒙」とはメリットこそあれ、デメリットはあまり感じられないように思う。しかしながら、「作画的啓蒙」の是非を巡っては、作オタの間でも大きく意見が分かれているのである。

 

 たとえば、ii節で取り上げたふたつのツイートは、啓蒙をよしとしない人びとのツイートといえよう。他方で、冒頭に挙げた作スレ巡回委員長のツイートなどは、啓蒙をよしとする旨のツイートといえるだろう。Twitter上で「作画 啓蒙」と検索して出てきたツイートを見るかぎりでは、どちらかというと啓蒙に否定的な人びとの数の方が多いように感じる。

 

 おれの立場はというと、「作画的啓蒙」には条件付きで賛成である。価値観が違うのだから、作画に興味がない人間は放っておけばよいという反対派の意見もわからないではない。しかし、そうした態度の行き着く先には無限の後退戦だけが待っているように思うのだ。だからこそおれは、仮に作オタ-非作オタ間の対立を深める結果となったとしても、「作画的啓蒙」をしてゆくべきだと考える。

 

iv. 無限の後退戦

 前節でおれは、「作画的啓蒙」を行わず、内輪のみで消費していこう方向性の行き着く先には、「無限の後退戦」しかないと言った。これについて補足していきたい。

 ここで一本の補助線を引いておこう。それは昨今の、いわゆる現代思想というものの在りようだ。たとえば戸田山和久氏の名著『哲学入門』では、論全体を通じて、自由意志や善といった哲学議論に登場する概念を、科学を基礎とする一元論的世界観に書き込むことを標榜している。いま手元に件の本がないため厳密なことは言えないが、序文には、戸田山氏の問題意識として、科学は物質性を担い、かたや哲学・思想の類は精神性を担うのだという二元論的な線引によっては、もはや哲学の領分を保つことはできないという問題意識があったように思う。

 かたやそうした状況に危機感を覚えずに、内輪向けの議論を再生産しつづけ、徐々に死に絶えつつある界隈も存在している。たとえば東浩紀氏が変えようとしているのは、そうした内輪向きのあり方だろう*3。再生産を続けた結果、もはや現実社会に対する影響力を失い、日本において現代思想というものは死に絶えようとしている*4

 では、先に挙げた科学との共存のアプローチはどうなのかといえば、それはそれで厳しい戦いを強いられているようである。というか、山形浩生氏かだれかが、そんなようなことを指摘していた。しかし、そうした事情は今は置いておこう。ともかく大切なのは、現代思想のうち、内輪で再生産を続けたある部分は、確実に衰退していっているということである。これは現代思想の文脈に限った話ではなく、内輪でのみ情報を消費するようになった集団には必定ともいえる結果なのである。

 

 このメカニズムは、複雑ネットワークの理論を援用することで明らかになろう。複雑ネットワークの理論に登場するモデルのなかに、完全グラフというものがある*5。これは(中断・再開予定)

 

[この節の残り部分(今後執筆予定)]

・(援用)BAモデルのスモールワールド性

・(援用)群の一部の主張が社会的ナッジとして機能し、群全体が動きを決める

・(事例)アニメートの多様性を壊す社会的ナッジ

 

v. 事実の教授か? 価値観の押しつけか?

 ⅲ節においておれは、作画的啓蒙の是非について、条件付きで賛成といった。v節ではそのことについて、もうすこし詳しく述べたい。

 

 おれが考えるに、作画的啓蒙のあり方には二種類がありえるように思う。すなわち、

①事実に基づいた啓蒙

②価値判断を伴う啓蒙

の二種である。ii節で挙げた辞書的な定義は①のあり方であり、Twitterから拾ってきた定義のほうは②のあり方である。以下ではこのふたつのありようを詳しく見ていきたい。

 

 ところで、知的能力にすぐれる読者諸賢にはいまさら説くことでもないが、事実に関する問題と価値判断に関する問題とは、分けて考えられるべきであろう。前期ウィトゲンシュタイン的に言ってみれば、私の論理空間のなかには、価値判断に関する命題は含まれていないのであり*6、価値判断は私の世界の向こう側にあるのである。

 

 事実的な問題はコンスタティブな言明として、検証という名の審判者によって裁きを受ける。こうした種類の言明は真か偽かのいずれかでしかない。かたや価値判断は真偽とは関わりがない。価値は明確な形で証明されることはなく、文化的背景によって(中断・再開予定)

 

vi. 未来のアニメートのために

 たとえば、Fate/apocrypha22話の一連のアニメートを作画崩壊と呼ぶような種類の人たちは、二重の意味で正される必要*7があるように感じる。

 ひとつには単純に、ナンセンスな言明を繰り返しているという意味においてである。たとえば以下のツイートを見ていただきたい。

 

 

 影なし作画とは、言わずもがなアニメートのための技術のひとつである。情報量を減らすことにより仮現運動を行う動体のフォルムを先鋭化し、観客の注意を動きに集中させることができる。おれは関係者ではないから、そして、アニメーションというものを詳しく知っているわけでもないから、本当のところはわからないのだけれども、しかし、あれだけのスタッフ*8が集まっていながら*9、クオリティを落とす目的で影を抜くことなどありえようか。いいや、ありえないだろう。

 いや、よしんばクオリティ維持の観点から影を抜いたのだとしても、それは意図あっての影抜きである。それは能動的な判断であり、よりよい作品づくりを標榜するのであれば、なされるべき判断だ。そうした判断のもとに出来上がった映像を、作画崩壊と呼ぶことはできようか。いいや、できないだろう。

 それはなぜか。崩壊とは、受動的に起きてしまったことに対して使う言葉だからだ*10。能動的結果として生じたのであれば、それは崩壊ではない。従って、作画崩壊と呼ばれる所以はないはずである*11

 注にも書いたように、以上は詭弁である。しかし他方で、影抜き作画が手抜きと判じられる理由もまた、根拠に乏しいと言わざるを得ないだろう*12実証主義に基づけば、件の影抜き作画が、いかにして成立したか、その事情が明らかにならない限りにおいて、影抜き作画が手抜きと判じられることはない。したがって、件のツイートはいまだ検証のなされていない種類の言明であって、論理に対する誠実さに欠く言明であることは明らかである。そうして、論理によりかかって生きている我々人類は、この種の言明を積極的に排斥してゆかねばならんのである*13。我々は、論理の婢とならねばならぬ。

 さて、いささか話が反れてしまった。このあたりで話を本筋に戻すとしよう。ここで告白するが、先にナンセンスな言明の事例として出したツイートは、本来別のツイートがその場を占めるはずだったのである。しかし、見かけたはずだったツイートは姿を消してしまった。だからこんな回り道を要求されてしまったのである。

 ああ、そうだ。もう端的に述べよう。多くの人びと*14が作画に関して使うことばは、そのじつなんら無意味なことばなのである。それはなぜか。彼らのあやつる用語は、ほんらいのことばのふるさとから離れて、彼ら独自の使い方をしているからである。こうした言葉遣いは、いわば私的な用法であって、全く排斥されるべき種類のものである*15

 つまりはこれが第一の罪だ。彼らの言明は、往々にしてナンセンスなのである。専門的な言い方をすれば、命題の指示対象が存在しないのだ。シニフィエなきシニフィアンといってもよい。ことばの定義があやふやで、にもかかわらず彼らは堂々と吐き捨てるのだ。こうした無責任なふるまいが許されていいのだろうか。いや、万人が許したとしてもおれは許すことができない*16。彼らの無責任な言い分は、その作品に精魂を傾けたスタッフへの冒涜である。

 ふたつには現実に、彼らの言明が、悪しき社会的ナッジとして機能している意味においてである。ここ10年ほどで、作画監督が複数人いるのが当たり前になったであろう。それは殊に(酔いが深くなってきたので、ここいらで中断することとする。続きはいずれ書くだろう) 

 

 

補足. 更新履歴

 2017.12.12. 未完成のまま公開

 2017.12.13. ii節を大幅に改稿。そのほか加筆。未だ完成せず。

*1:こういう区分をすると、いささか話が大きくなりすぎるかもしれない。また、作画オタクと呼ばれる人たちを明示的に示すことはできそうだが、その逆は難しそうである。

*2:大いに誇張を含む。作画的言説空間の周辺にいる人間にとって、アクエリオン19話のうつ事件やグレンラガン4話小林事件は大事件として記憶されていようが、それ以外の人びとは、おそらく認知すらしていないだろう。

*3:氏は毀誉褒貶の激しい人物ではあるが、日本における現代思想の有り様を変えようとするその姿勢において、おれは一定の評価をしている。

*4:少くとも知的なものに対する関心は薄れていっているだろう。

*5:詳しくはwikipediaなどを参照頂きたい。もっと確実な情報を得たいという方は、増田直紀氏の著書などにあたって頂きたい。

*6:倫理学講話」にあるように、相対的価値判断を事実的言明としてパラフレーズすることは可能である。しかしその場合においても、論理空間上に存在できるのはパラフレーズされたあとの言明のみであろう。

*7:「正される」必要があるというのは、すこし強すぎる表現かもしれない。なぜならば、かの人びとはある一側面においては、決して誤りを犯しているとはいえないからである。しかし、その無自覚な言動がある種の社会的ナッジとして機能し、その結果アニメーションの多様性が喪われる可能性がある以上、おれはかの人びとが「正され」ねばならないと、あえて言う必要があるように思う。

*8:かつてワンパンマンが「中堅実力派アニメーターによる加減を知った暴走」といった旨で総括されたように、Fate/apocryphaは、「若手実力派による加減を知らない暴走」とでも形容できようか。

*9:TVシリーズというのは得てして後の話に行くにつれ、スケジュール的には厳しくなる。従って、22話の場合にも、スケジュールの問題から影を抜いたという仮定を否定する材料を、おれは持っていない。

*10:コトバンク「崩壊」[https://kotobank.jp/word/%E5%B4%A9%E5%A3%8A-627170]を参照。辞書を引くのが面倒なので、ネット辞書に頼ってしまったことをここに告白する。

*11:この節を書くにあたって、おれはストロングゼロを呑んでいる。それゆえ筆が乗っているのではあるが、その反面で論理的思考を損じているきらいがある。この言い分も詭弁がすぎるように思うが、屁理屈も理屈ということばもあるように、詭弁もある種の論理を彫琢しているのだと思って読んでいただければ倖いである。

*12:前注でも述べたが、おれはいま酔っている。したがって、素面のおれが読み返したら、このあたりの段落はおそらく書き直すだろうと思う。

*13:三度目になるが、おれは酔っている。したがって、素面では吐かんような大言壮語を吐いてしまっている。

*14:ここでは非作オタを指す。非作オタとは、作画に関連する用語に習熟していない人間を指す。

*15:私的言語については、ウィトゲンシュタインなどを参照頂きたい。

*16:重ねていうが、大言壮語が過ぎると思う

概念整理①:系について

 

 

大仰なタイトルをつけてしまったものの、要するに自分なりに用語の整理がしたいというだけの話である。今回は「◯◯系」と呼ばれる表現を定義しておきたい。断っておくが、これはあくまでわたし個人の定義であり、一般に確定されたものではない。

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雑言:ACCA原画展に行ってきました。

お久しぶりです。

 

といっても、これまでに投稿した記事の数からすると、読者諸賢と、久しぶりといえるほどの関係を築けているかどうかは限りなく疑問ではありますが。

 

かっちりした記事を書こうと思うと、記事にするまでのハードルが不用意に上がってしまう感じがするので(実際、それがもとで133日も更新が滞っていたわけですし)、すこし気を楽にして、やわらかい記事を書いてみようと思います。

 

みなさま、現在*1ササユリカフェにて行われている、ACCA原画展は御存知でいらっしゃいますでしょうか。作画をキーワードにしている、こんな末節のブログを閲覧しにくるような諸賢におかれましては、おそらく既に御存知でいらっしゃることと思います。

 

私見ではありますが、かつて2015年において、作画アニメ*2として煌々とその名を刻んだ、「ワンパンマン」を生んだ夏目真吾氏*3が監督をし、同作において辣腕を振るった久貝典史氏、榎戸駿氏のような実力派がメインスタッフとして名を連ねた「ACCA」という作品は、「ワンパンマン」同様、演出的見どころもさることながら*4、作画的見どころに富んだ作品となりました。そんな「ACCA」の原画展が行われる、それもあのササユリカフェ*5で行われるとあっては、作画ファンを自称する私としては行かずにはいられません。

 

と、前置きが長くなってしまいました。

 

本日ようやく、ACCA原画展に行くことができました。

名うてのアニメーターがこぞって参加していた同作は、非常に見応えのあるカットが多く、今回展示されていた原画コピーもどれもこれもがすばらしく、一枚一枚の原画の出来栄え、また、そうした原画を直線的時間のもとに連続させたときの動きの快感のすさまじさに、私は文字通り息を呑むばかりでした。

 

本当ならば、それら原画のひとつひとつに細かく感想を付けていきたいところではあるのですが、紙幅と、それから私自身の作画的知識の不足とを鑑みて、私の好む幾人かのアニメーターを取り上げることによって、原画展全体の紹介に代えさせて頂きたいと思います。

 

 

一、村上泉氏のED原画

 

本原画展の目玉はなんであったかと問われれば、私は迷うことなく、「村上泉氏のED原画であった」と答えることでしょう。あのED原画は、そのくらい筆舌に尽くしがたい出来栄えでありました。

 

同EDは、放映当時から注目されていたように記憶していますが、今回原画という形で見てみますと、仕上げや撮影処理といった、作画を味わうための雑味*6が省かれ、原画としての味わいがより先鋭化されていたように思います。

金田・大平的な「人体をエフェクトとして描く」というダイナミズムを満々と湛えた原画は、一連なりのアニメーションになったとき、予想もつかないほどの想像力のはばたきを感じさせます。また、たんに一枚一枚の絵として見た場合にも、非常に月並な表現ではありますが、それこそ一幅の絵画の如き豊かさを備えています。

 

私個人としては、このED原画が見られたというだけで、この展示に来た意味があったとさえ感じました。

 

二、第7話、坂詰嵩仁氏のカット*7

 

放映当時、個人的に好みだったカットです。見た瞬間から坂詰氏の仕事であると直感致しましたが、例え氏の仕事でなかったとしても、ロッタ・オータスという少女の爛漫な挙措、思わずこちらまで笑みをこぼしてしまいそうになるほどの多幸感を活写した同カットは、第7話を代表する見どころのひとつでしょう。

個人的に注目したのは、同カットにおけるロッタ・オータス女史の髪のなびき方です。これはいまだに感覚的な次元でしか語れないのですが、髪のフォロースルーの入れ方というのは、アニメーターの個性がおおきく出るポイントのひとつのように思えます*8

 

三、第1話、澤田英彦氏のカット*9

 

モーヴ本部長が視察のため、ファーマスのACCA本部へと入館するカットです。私見ですが、「ACCA」という作品において、モーヴという女性キャラクターを鮮烈に印象づけた、傑出のシークエンスであると思います。

モーヴ本部長を出迎える人びとの、周章の思いを丁寧に拾った芝居付けは、モーヴという女性が、ACCAという組織でどのような立ち位置にあるかを暗に示していますし、なによりも、モーヴという女性のひとつひとつの挙措がそのまま、自身の性格・地位を明確に表しています。

こうした場面が、違和感なく描かれているのは、偏に澤田氏の力量によるものでしょう。モーヴの腰のアップから始まる歩きのカットや流し目のカットなど、たいへんに見応えがありました。

 

以上とりとめなく取り上げてきましたが、行って損のない展示であることは間違いありません。迷われている方は、是非とも見に行かれますよう。

*1:2017.08.12.現在

*2:ここでは「絵が動くことのおもしろさが感じられるアニメーション」くらいの意味合い。しばしば用いられる「作画的見どころくらいしか見るところのないアニメーション」のような蔑意は全く込めていない。

*3:いつぞやの作スレで見たように思うが、近年に誇る人脈神であることは間違いなさそうである。

*4:個人的には、大ベテランである川尻善昭氏のコンテ回が、ウエットな仕上がりで好みだった。

*5:あえて述べる必要もないように思うが、ジブリの動検として長くジブリ作品を支えてきた舘野仁美氏が開業された同カフェは、パート表記があり、なおかつぱらぱらとめくることのできる原画コピーを主体とした、「作見」を存分に味わうことのできる企画展を次々と企画する、作画ファンのメッカである。

*6:こうした諸工程の持つ価値を否定する発言ではないことは断っておく。むしろ、アニメーションとは総合芸術であるから、ほんらい上流下流問わず全工程の総体として評価すべきものである。しかしながら、仕上げ・撮影処理という工程は、しばしば作画という言葉の意味を解さない、浅見なアニメファンが、作画的評価を下す際の誤った基準となっていることは、諸々の実例によって既に示されているところである。私はこうした傾向を良しと思っていない。

*7:展示ではカット数の表記がされており、本来ならば厳密に特定できたところではあるが、カット番号を控えてくるのを失念してしまった。

*8:この部分を書いていて頭に浮んできたのは、吉成鋼氏の描く髪なびきである。氏の描く髪なびきは、たとえば「秋色恋華」OPに見られるように、執拗なまでに強調されたフォロースルーを特徴とする。

*9:C202-209。

雑言:アニメーションの情報量に関する幾つかの雑言

 アニメーションの情報量について、考えたことをメモ書き程度に(2017年1月5日に書き留めた)。

 
・これは未来予測ではない。それどころか、現状の分析ですらない。事実の断片をいくつか混ぜ込んだ、ある好事家の空想である。
・昨今情報量の少ない画作りが求められているように思う。これはたんに直感を頼りに思うばかりでなく、実際に制作の現場から要求されていることでもある(例:柳沼和良・吉成鋼ほか、幾人かのアニメーターによってめばちちゃんがほめられるなど。もっとも、上に挙げた二人は性癖が性癖なので、デザイン上の都合からめばちちゃんを褒めているわけではないのかもしれないけれども)。
・また、某所でかつて指摘されていたように、リアルを志向する画作りは行きつくところまで行きついた感がある(作画・撮影処理など)。
・御周知の通り、アニメーションにおける情報量は、年代によって波がある。OVAの登場に伴って、高密度な画面が要求されるようになり、80年代に一度ピークが来る。90年代に演出の時代、そして00年代初頭には人狼系リアル(と、ぼくは呼んでいるのだけど、この呼称で分かっていただけるだろうか)と、情報量は下降線を辿る。そして現在、情報量は再びピークに達しつつあるように思われる。
・供給される量と質に、現場が悲鳴を上げている。
・したがって今後本数は減少せざるを得ないだろう。
・また、画作りに対するパラダイムシフトが起る可能性もある。すなわち、リアル(≒情報量/線の多い)至上主義からの転換である。
・情報量の変化は作画スタイルの変化を促す可能性もある。例えば80年代に情報量の増大に伴って、幾人かのパイオニアたちの革新的な仕事を発端として(磯ショック・うつのみやショック)、リアル系作画の流れが生れたように、情報量の変化が新たな作画手法を誕生させる一因となることは十分に考えられる。
・先日、磯光雄氏がtwitter上で指摘していたように思うが、リアル系の、すなわち実写をお手本とした(氏の指摘していたのはレンズであったと記憶するが)画作りに固執する必要はどこにもない。また、庵野秀明氏がインタビューにおいて度々発言しているように、アニメーションの長所は、作り手のイマジネーションを画面へと直接出力できる点にある。実写作品のような制約(環境要因・機材の限界・役者の限界など)は極めてすくない。すなわち、非実写的な画作りの広大なる沃土は、茫洋と広がっているといえよう。
・情報量の多い画面への抵抗(というより、プロダクトとしての完成度への抵抗だろうが)は、これまでも各所で行われてはいた。作画的次元においては山下清悟・沓名健一両氏を筆頭としたweb系アニメーターの運動が思い出される。またアニメーション全体としては今石洋之氏や雨宮哲氏といった、スタジオトリガー系の諸作品(インフェルノコップやニンジャスレイヤーなど)が思い出される。(こうしたトリガーの作品、とくにニンジャスレイヤーなどは、「トメるところはトメ、動かすところは動かす」という、庵野氏の思想が影響しているのではないかと思うが、これは機会があれば別所で考察したい)

はじめまして

 おもいつきで、ブログをはじめてみようと思います。

 内容としてはおそらく、大方のところにおいて、アニメーションの作画に関する話題に終始すると思います。

 ぼくはいわゆるにわか作画厨というやつで、知識も作眼もあるわけではないのですが、アニメを観ていくなかで、その都度考えたよしなしごとを綴っていくつもりです。